幼少期を織田氏ついで今川氏の下で人質として過ごし、諱は元服時に今川義元より偏諱を受けて元信(もとのぶ)、次いで元康(もとやす)と改め、通称は当初次郎三郎、元康に改名した際に蔵人佐を用いている。
当初は今川氏の配下として活動するが、永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで今川義元が討死したのを機に今川氏から独立して家康に改諱し、織田信長に接近して永禄5年(1562年)に清洲同盟を結ぶ。
永禄9年12月29日(1567年2月18日)には徳川氏に改姓した。
本拠の三河国を平定後は信長に協調、従属しながら今川氏や武田氏など周辺大名と抗争を展開、勝利して版図を遠江国・駿河国にまで広げていく。
天正10年(1582年)には本能寺の変での信長死亡後に発生した天正壬午の乱も制して甲斐国・信濃国を手中に収め、5か国を領有する大大名となった。
信長没後に織田政権で勢力を伸張した豊臣秀吉とは天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦いで対峙するが、後に秀吉に臣従し、天正18年(1590年)の小田原征伐後は後北条氏の旧領関東8か国への転封を命ぜられ、豊臣政権下で最大の領地を得る。
秀吉晩年には五大老に列せられ大老筆頭となる。
秀吉没後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍を率いて西軍に勝利し天下人の地位を獲得、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任命され武蔵国江戸に幕府を開く。
慶長20年(1615年)の大坂の陣で豊臣氏を滅亡させ、江戸幕府が中心となって日本を統治する幕藩体制の礎を築いた。
没後は東照大権現の神号を後水尾天皇から贈られ、東照宮に祀られるなどして神格化され、江戸時代を通じて崇拝された。
生誕: 天文11年12月26日(1543年1月31日)
死没: 元和2年4月17日(1616年6月1日)
竹千代(のちの徳川家康)は、天文11年(1542年)12月26日に岡崎城主松平広忠の嫡男として三河国(現:愛知県)岡崎城で生まれる。
3歳のころ、水野忠政没後に水野氏当主となった水野信元(大子の兄)が尾張国の織田氏と同盟する。
織田氏と敵対する駿河国の今川氏に庇護されている広忠は大子を離縁。竹千代は3歳にして母と生き別れになる。
天文16年(1547年)8月2日、竹千代は数え6歳で今川氏への人質として駿府へ送られることとなる。しかし、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の織田信秀へ送られた。
2年後に広忠が死去する。今川義元は織田信秀の庶長子・織田信広との人質交換によって竹千代を取り戻す。しかし竹千代は駿府に移され、岡崎城は今川氏から派遣された城代(朝比奈泰能や山田景隆など)により支配された。
1555年、14歳の時、家康(当時は竹千代)は駿府で今川義元の下で元服し、「次郎三郎元信」と名乗る。これにより、家康は今川氏の正式な家臣となり、義元の「元」の字を与えられた。家康は今川義元の姪である築山殿と結婚し、今川一門に準じる立場を得る。その後、「元康」と改名し、1560年の桶狭間の戦いでは、初陣を果たし、今川軍の先鋒として活躍した。
家康は今川氏の家臣として従い続けていたが、今川氏が織田信長に敗れると、独立への道を模索し始める。桶狭間の戦いの後、家康は岡崎城を奪還し、独自の軍事行動を取ることで、今川氏からの独立を果たそうとした。家康の祖父である松平清康の名から「元康」と改名したことも、今川氏の影響を受けていたが、彼は独立の意志を強めていった。
1561年、家康は織田信長と同盟を結び(清洲同盟)、今川氏と断交する。これにより、三河国を完全に支配下に置くことに成功する。家康はまた、将軍足利義輝に馬を献上することで幕府との関係を築き、独立した領主としての地位を確立した。1563年には「家康」と改名し、名実ともに徳川家の新たな指導者となる。
1566年、家康は朝廷から従五位下三河守に任命され、これを機に苗字を「徳川」に改める。松平氏は清和源氏の支流である世良田氏の系統を自称していたが、家康は藤原氏の名を借りて改姓を実現した。この改姓は、家康がより広範な支配力を持つための重要なステップであった。
1568年、武田信玄と同盟を結び、今川領の遠江国に侵攻する。家康は曳馬城を攻略し、遠江国を支配下に置く。しかし、武田氏との同盟関係は長続きせず、家康は武田信玄との対立に直面することになる。1572年、家康は武田軍に対して三方ヶ原の戦いを挑むも敗北したが、この経験を通じて軍事的な教訓を得る。
1582年の本能寺の変後、家康は混乱の中で勢力を拡大しようとしたが、豊臣秀吉の急速な台頭により対立関係が生じる。1584年、小牧・長久手の戦いでは秀吉と対立したが、最終的には秀吉との和睦に応じ、次男の結城秀康を人質として差し出す。この和睦により、家康は形式的に秀吉の支配下に入る。
1590年、小田原征伐後、家康は秀吉の命令で駿河・遠江・三河の旧領を離れ、関東に移封される。この移封は、家康を関東地方に配置することで、豊臣政権の支配を東国全域に広げる狙いがあった。家康は新たな本拠地として江戸城を選び、ここから徳川家の新たな歴史が始まる。江戸への移封は、家康にとって新たな挑戦でありながらも、彼が後に天下を掌握するための重要な布石となった。
1596年、家康は豊臣秀吉の推挙により内大臣に任ぜられた。以降、家康は「江戸の内府」と呼ばれるようになる。
1597年、再び朝鮮出兵が開始されたが、家康は渡海しなかった。日本軍は初期の攻勢以降、朝鮮半島の沿岸部で防衛に注力するようになった。
1598年、秀吉が病に倒れると、自身没後の体制を固めるために五大老・五奉行の制度が定められた。家康は五大老の一人に選ばれ、秀吉の死後は豊臣秀頼の後見人としての役割を担うことになった。これにより、家康は政権の中心に立ち、豊臣政権内での影響力を強めていく。
秀吉の死後、家康は五大老の筆頭としての地位を確立し、事実上の権力者となる。1595年に秀吉が定めた大名同士の婚姻禁止令を無視し、家康は複数の政略結婚を通じて影響力を拡大する。この時期に家康が結ばせた婚姻には以下のものがある:
こうした動きにより、家康は大老・前田利家や石田三成などの反感を買うこととなる。1599年には家康に対して三中老が問罪使を派遣するが、家康はこれを恫喝して追い返し、前田利家とも誓書を交わして和解に至った。しかし、その後の石田三成襲撃事件により、三成は失脚し、家康はさらに権力を強めた。
1600年、会津の上杉景勝の動きが不穏であるとの報告を受けた家康は、上杉討伐を決意する。しかし、石田三成らが挙兵し、西軍を結成したことから、家康は上杉討伐を中断し、西軍討伐に転じる。家康は東軍を率いて関ヶ原で西軍と対決し、勝利を収めた。この勝利により、家康は豊臣政権内での地位を確固たるものとし、天下人としての立場を築いた。
1603年、家康は征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開く。これにより、家康は正式に日本の支配者となり、徳川幕府の基盤を築いた。将軍職は嫡男の秀忠に譲ったが、家康は「大御所」として実権を握り続けた。
豊臣秀頼との共存を模索しつつも、家康は豊臣氏を警戒していた。方広寺鐘銘事件を契機に、家康は豊臣氏との決戦を決意し、大坂の陣へと進む。こうして、徳川家康は日本の統一を果たし、江戸時代の基盤を築くこととなった。
1615年、家康は後陽成天皇の第八皇子、八宮良純親王を猶子とした。同年、禁中並公家諸法度を制定し、朝廷と武家の関係を規定。さらに、諸大名を統制するために武家諸法度や一国一城令も制定し、徳川家による日本全域の支配を確立する。また、家康は自身の隠居城として、沼津の泉頭城を再整備しようとしたが、健康悪化により計画を中止し、駿府城で過ごすことに決めた。
1616年、年始から幕府は儀礼の整備に取り組み、武家諸法度に従い、江戸城や駿府城への登城者には正式な装束の着用が求められた。1月には、孫の家光の元服を江戸で行うために、自ら江戸に向かう計画をしていたが、21日に鷹狩の途中で体調を崩し、駿府に戻って療養生活に入った。家康の病状は徐々に悪化し、3月27日には太政大臣に任じられるが、勅使との対面は病を押して行った。その後、4月1日には遺言を残している。
1616年4月17日、家康は駿府城で75歳で死去した。遺体はその夜に久能山に移された。家康は、弔問や法要を最低限に留めるよう遺言しており、増上寺以外での法事は不要とされた。『東照宮御実記』によれば、家康は次の2首を辞世として詠んだ。
「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」
「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」
家康の死因については、長らく鯛の天ぷらによる食中毒説が一般化していたが、死去までの時間が長いため、胃癌が主な死因とされている。『徳川実紀』では、家康の病状として、激しい痩せ、吐血、黒い便、腹部の腫瘍が記録されており、これが胃癌の症状と一致する。後代には天ぷらが禁じられたが、これは家康の死因ではなく、実際には大奥での火事が原因だったとされる。
また、家康は殉死を禁じており、殉死者はほとんどいなかったが、古くから仕えていた老齢の小者2人が殉死したと伝えられている。