東京駅と皇居の間の官庁ビル郡に埋もれた小さな緑地帯に将門塚があります。いといろな噂の絶えない場所でもあります。
将門は平安時代に生きた武人です。天慶の乱(~940)を起こします。
この辺りは芝崎村と呼ばれ、嘉元年間(1303~05)遊行二代他阿真教上人が将門の霊を回向した塚があり、神田明神に配祀したと伝えられます。
当地は神田明神の旧地といわれています。この塚は手厚く祀られていたのですが、関東大震災後に崩され、現存していません。敷地内にある「故跡保存碑」は、大蔵大臣阪谷芳郎が建立したものです。
平将門は下総国豊田の里(茨城県)で鎮守府将軍・平良将の子として産まれました。長男・平国香は常陸国を、次男・平良兼は上総国を治めていました。平良将が死ぬと国司の平国香が下総を預かりますが評判は悪かったようです。
918年、将門は都に赴き左大臣・藤原忠平に仕え、約10年を過ごしています。
930年、将門は下総に戻り鬼怒川の治水工事等で各地を開墾しました。この頃から朝廷や国司の重税にあえぐ東国の民から支持を得たようです。その後、国香、良兼と戦うことになります。数千の大軍が将門を攻めますが、逆に百騎の将門の軍に敗れます。
その後、常陸国で新しい紛争が勃発します。藤原玄明(はるあきと藤原維幾の争いで、将門は仲介するために1000余人の兵を率いて常陸国府に向かいます。しかし、維幾、為憲(ためのり親子と合戦に及んでしまい、将門軍は東国一の常陸国府を占領し維幾を取り抑えますが国府を攻めた以上、国家に対する謀反をはかったことになってしまいました。ここで将門は関東に独立国家建設を目指します。余りにもひどかった国の守の政治に反感を持つ人達に支持され下野国府を皮切りに各国の国府を次々と攻め落とします。その勢力は常陸、下野、上野、武蔵、相模、伊豆、下総、上総に及びまそた。
ついに朝廷から将門追討の命が下り、藤原秀郷と平貞盛の大軍と戦いになります。将門は幸島(さしま郡北山で将門は戦死します。京に届けられた将門の首は都の東市にさらされました。
伝承では首は3日目に夜空に舞上り故郷に向かって飛んでゆき数カ所に落ち。首塚が出来たとされました。
古くから江戸の地に於ける霊地とされました。第二次世界大戦後に、連合国軍最高司令官総司令部が周辺の区画整理にとって障害となる此地を造成しようとした時、不審な事故が相次いだ為、結局、造成計画を取辞めたと云う事件がありました。結果、首塚は戦後も残る事となりました。
このくだりは有名なので記しましたが史実ではないと思います。
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