杉田玄白・栄閑院(猿寺)江戸時代初期(AD1603–AD1868)、久蓮社俊誉園応によって開山された。近くの天徳寺の塔頭として創建された浄土宗のお寺です。「猿寺」とも呼ばれています。寛永年間(1624年~1645年)、猿まわしの泥棒が寺の住職によって改心し、猿を残して、諸国行脚の巡礼に旅立ちました。残された猿は、当寺の飼い猿としてかわいがられた逸話が伝えられています。この逸話から境内に猿の石像があります。 境内に杉田玄白の墓があります。杉田玄白(すぎた げんぱく:1733年-1817年)は、江戸時代の蘭学医で、若狭国小浜藩医でした。江戸、牛込の小浜藩酒井家の下屋敷において、小浜藩医杉田玄甫の三男として生まれました。宝暦3年(1753年)、小浜藩医となり、上屋敷に勤めました。明和8年(1771年)、中川淳庵がオランダ商館院から借りたオランダ語医学書『ターヘル・アナトミア』をもって玄白のもとを訪れました。玄白はオランダ語の本文は読めなかったものの、図版の精密な解剖図に驚き、藩に相談してこれを購入しました。玄白は、偶然にも長崎から同じ医学書を持ち帰った前野良沢、前述の中川淳庵らとともに「千寿骨ヶ原」(現東京都荒川区南千住小塚原刑場跡)で死体の腑分けを実見し、解剖図の正確さを確認しました。玄白、良沢、淳庵らは『ターヘル・アナトミア』を和訳し、安永3年(1774年)に『解体新書』として刊行し日本の西洋医学に多大な貢献しました。 玄白は晩年に回想録として『蘭学事始』を執筆し、後に福沢諭吉により公刊されています。文化2年(1805年)には、11代将軍徳川家斉に拝謁し、良薬を献上しています。
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