浅草天文台跡は、天明2年(1782)に牛込藁店(現、新宿区袋町)から移転、新築された江戸幕府の役所機関「天文方」の施設「頒暦所御用屋敷」跡です。頒暦所御用屋敷は、明治2年(1869)に廃止されるまで、暦を作るための天体観測などが行われていました。日本地図を徒歩で測量した伊能忠敬も当地へ通っていたと伝えられています。 規模は「司天台の記」という史料によると、周囲約93.6m、高さ約9.3mの築山の上に、約5.5m四方の天文台が築かれ、43段の石段がありました。また、別の史料「寛政暦書」では、右段は二箇所に設けられ、各50段あり、築山の高さは9mあったと記されています。 幕末に活躍した浮世絵師、葛飾北斎の「富嶽百景」の内、「鳥越の不二」には、背景に富士山を、手前に天体の位置を測定する器具「渾天儀」を据えた浅草天文台が描かれている。 浅草の天文台は、天文方高橋至時らが寛政の改暦に際して、観測した場所であり、至時の弟子には、伊能忠敬がいます。忠敬は、全国の測量を開始する以前に、深川の自宅からこの天文台までの方位と距離を測り、緯度一分の長さを求めようとしました。また、至時の死後、父のあとを継いだ景保の進言により、文化八年(1811)、天文方内に「蕃書和解御用」という外国語の翻訳局が設置されました。これは後に、洋学所、蕃書調所、開成所、開成学校、大学南校と変遷を経て、現在の東京大学へ移っていった機関です。
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国立国会図書館デジタルコレクション
葛飾北斎 画『富岳百景 3編』三,永楽屋東四郎[ほか],天保5-6 [1834-1835] 序. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/8942999 (参照 2024-05-05)