聖徳寺の創建年代は不明です。聖実によって開山されたと伝えられています。聖実は聖徳太子像を携えて、現在の皇居があったところに寺を創建しました。1453年(享徳2年)、加誉良祐によって中興されました。以前の宗派は不明で、このときに浄土宗となりました。1657年(明暦3年)に現在地に移転しました。 三代将軍家光代の頃(1623年~)になると、江戸には大名やその家臣が屋敷を構え、商人や職人も定着し、人口が増加しました。従来の上水では水需要をまかなうには支障を来たしてきました。 承応元年(1652年)幕府は、多摩川から江戸に上水を引く計画を立てていました。同時期に、当時芝に住んでいた庄右衛門、清右衛門兄弟から願い書提出の形で、玉川上水土木工事が提出されたのでした。名君保科正之は幕閣の反対を押し切って、この願い書を取り上げました。 承応2年4月から工事は着工され、羽村の取水口から四谷大木戸まで約 43km、標高差約92mを、鍬、ツルハシ、もっこ程の人力で僅か8ヶ月で工事を完成させました。 上水は、四谷大木戸から、さらに石樋や木樋を使って江戸城下の町々へと配流されて、市民の水需要に応えました。これらの給水工事が完成したのは承応3年6月だったようです。 工事は、「水喰土(みずくらんど)」と呼ばれる地で、水が地中に吸い込まれる事態に陥るなどのことから、当初予定していた取水地点の変更を余儀なくされるなど、苦難の連続で、幕府からの六千両の下賜金も使い果たし、私財を投げ打って完成させたといわれます。この場所は拝島駅から上水沿いを歩くと福生市指定史跡玉川上水開削工事跡として残されています。小さな水喰土公園(〒197-0003 東京都福生市大字熊川1359−1)があります。 完成後、兄弟は名字(玉川)帯刀を許され、上水の維持管理の役、今でいえば水道使用料の徴収権を獲得しました。 玉川庄右衛門(たまがわしょうえもん ?-1706) 玉川清右衛門(たまがわせいえもん ?-1715) 武蔵野台地は高低差が少なく、緩やかな傾斜が要求されました。夜間提灯の明かりを利用して高低差を算出したと小生は小学校の授業で習いました。 玉川上水の掘削位置は、武蔵野台地の最も標高の高いところを通しています。これにより、水の無かった武蔵野台地へ小さな用水路を作り水を左右に分水して行くことができました。工期と距離から考えると1日に180mも進んだことになります。
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