吉良上野介義央は江戸城呉服橋門内に屋敷を与えられていました。江戸城の松の廊下で刃傷事件が発生し、数ヶ月後に彼は隠居申請を幕府にしました。申請が受理され、家督を子の義周に譲ります。義央が隠居すると幕府は吉良家に対して呉服橋門内の屋敷を召し上げとし、ここ本所松坂町に屋敷替えを命じました。万一赤穂浪士たちが吉良をあだ討ちすようなことになれば都心部で騒ぎを起こすことになります。これを懸念した幕府の措置でした。当時この付近は江戸の新興住宅地と言った場所でした。既に隠居の身の吉良上野介は、幕府からの護衛の援助を期待することはできないため、実子が継いでいる米沢藩上杉家筋からの家臣団や浪人たちを雇って厳重な警備を行なっていました。しかし寝込みを襲われた吉良側は十分対応できず、赤穂浪士の討入から約3時間後、物置小屋に隠れていた吉良上野介は発見され討ち取られました。 現在、吉良邸のあった場所には小さな公園があります。公園は当時の吉良邸内のほんの一角を占めていた場所です。この公園には当時の吉良邸の平面図や討ち入りの資料が屋外展示されているほか、赤穂浪士が吉良の首を洗ったという「首洗いの井戸」が残されています。 公園の周囲は住宅やビルが建ち、当時の面影はありません。
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