松尾芭蕉が深川の庵に移り住んだのは、延宝8年(1680年)、芭蕉37歳でした。彼は、ここから、東海道~甲州路を巡る『野ざらし紀行』、信濃を訪ねた『更級紀行』、東北・北陸方面へと向かう『奥の細道』への旅へ出かけました。 正確な芭蕉庵は、当時の資料によると、弟子の杉山杉風(さんぷうが、深川万年橋近くに草庵を所有しており、そこに芭蕉を招いたと記されています。 杉山杉風は、日本橋小田原町に住む幕府の御用魚問屋で、深川万年橋近くに魚の生け簀を所有しており、その番屋を芭蕉に貸し与えたようです。芭蕉(その当時の俳号は桃青)が、この番屋に移り住んだのは1680年であり、翌年1681年に芭蕉の株を、門人から貰い受けたことが芭蕉庵と呼ばれたと言われてます。この最初の芭蕉庵は、1682年の八百屋お七の火事で焼失し、翌年(1683年)に再建されました。芭蕉の死後(1694年)、芭蕉庵のある地は武家地となりました。江戸切絵図(1849年版)の本所深川絵図には、万年橋際の紀伊家の中に「芭蕉庵の古跡が庭中にあり」との記載が残されており、おおよそこの芭蕉稲荷付近だったようです。 芭蕉稲荷神社を訪れると、多くの蛙の置物があり、不思議に思う方が多いと思います。 芭蕉が「古池や蛙飛びこむ水の音」を発表してからは、芭蕉のもとには蛙の置物が送られるようになり、芭蕉自身もそれらを愛好していたと言われています。これらは、芭蕉没後も芭蕉庵に置かれていましたが、明治維新の混乱にまぎれ芭蕉庵と共に消えてしまいました。1917年9月30日(大正6年)台風の高潮がこの地域を襲いました。海水が水が引い後から石造りの蛙が偶然見つかったのです。芭蕉が愛した蛙として、地元の人々は芭蕉稲荷神社を祭り、見つかった蛙を納めました。しかし、1945年3月(昭和20年)の空襲後、再び行方不明となり、1975年(昭和50年)新たに作られた蛙が、芭蕉稲荷神社に置かれました。 1980年(昭和55年)芭蕉記念館の建設が始まったとき、芭蕉遺跡保存会役員が自宅金庫を整理したところ、なんと戦火を逃れ保管されていた蛙が見つかったのでした。現在は、この神社の近くにある芭蕉記念館で保管されています。
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