成等院は、浄土宗のお寺です。成等院は、寛永元年(1624)、霊巌寺の塔頭寺院として創建されました。万冶元年(1658)霊巌寺と共に当地へ移転したと伝えられています。材木豪商であった紀文は晩年は没落し、この寺に小さな墓を残しました。 正面の大きなものは記念碑で、左の小さな朽ちた墓石が彼のお墓です。 江戸前期の豪商(生没年不詳) 通称は紀文。紀伊国の生まれといわれ、故郷で産するミカンを江戸にはこび、帰りの船で江戸から塩鮭を上方に運送して財をなしたとつたえられます。 貞享年間(1684~88)に江戸の京橋本八丁堀3丁目(東京都中央区)に材木問屋を開業。1697年(元禄10)ごろには老中柳沢吉保や勘定頭の荻原重秀とむすびついて、駿府の豪商松木新左衛門とともに、御用達商人として上野寛永寺根本中堂の用材調達を請負ます。下総国の香取社の普請用材なども調達しています。こうした事業は巨利を生み、奈良屋茂左衛門とならび全盛をきわめました。日常生活でも金銭をおしまず、吉原で豪遊したため紀文大尽(だいじんとよばれ、それも資力の宣伝効果となって商売上の信用を高めました。 しかし、1700年幕府御用達の特権をうばわれたうえ、柳沢・荻原らが引退したことで商売もふるわなくなったとのこと。さらに深川木場の火災で所有する材木を焼失したため、正徳年間(1711~16)材木商を廃業します。その後、現在の深川八幡(東京都江東区)に閑居しました。山東京伝の「近世奇跡考」(1804)によれば、34年(享保19)66歳で没したと記されています。死後、元禄町人を代表する豪快な生きざまが、人情本や歌舞伎の題材に多くとりあげられ今日まで伝えられています。 紀伊国屋や紀文という言葉は今でも有名です。
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