霊巌寺(れいがんじ)は、浄土宗のお寺です。寛永元年(1624年)、雄誉霊巌上人により、日本橋付近の芦原を埋め立てた霊巌島(現在の東京都中央区新川)に創建されました。明暦3年(1657年)、江戸の大半を焼失した明暦の大火により霊巌寺も延焼しました。万治元年(1658年)に徳川幕府の火事対策を重視した都市改造計画の一環として、現在地に移転しました。 霊巌寺には、11代将軍徳川家斉のもとで老中首座として寛政の改革を行った松平定信の墓をはじめ、今治藩主松平家や膳所藩主本多家など大名の墓が多く存在します。また、境内には江戸六地蔵の第5番が安置されています。江戸六地蔵霊巌寺の境内には江戸六地蔵のひとつがあります。享保2年(1717年)に深川に住んでいた地蔵坊正元が造立したものです。大病をわずらった正元が、地蔵菩薩に快復を祈願したところ、願いがかなったことから江戸に六体の地蔵を造ったそうです。そのひとつが、霊巌寺の地蔵菩薩とのことです。現在は、六体のうち五体が残っていて、霊巌寺の地蔵菩薩は江東区で唯一、都有形文化財に指定されている史跡です。 松平定信松平定信(1758~1829)は8代将軍徳川吉宗の孫にあたります。陸奥白川藩主となりました。天明7年(1787年)に老中となり、教科書にも記載されている寛政の改革を断行しました。 祖父吉宗の享保の改革を模範とし、勤倹尚武を精神的支柱として棄捐令・囲米の制などを施行します。また寛政異学の禁を行い、人足寄場を設置し失業対策も行います。幕府の赤字財政は黒字となり、定信失脚の頃には備蓄金も20万両程貯蓄することができたと言われています。 一応の成果をあげたのですが田沼時代を経験した出発した人々には寛政の改革は、過度な禁止政策が目立ち不評をかいました。そして定信は尊号一件を契機に老中職を辞しました。 彼は、朱子学者でもあり「花月草紙」「宇下の人言」「国本論」「修身録」などの著書が残されています。
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