江原観音堂・江古田不動堂 私が訪れたとき、メインの不動堂は整地されていて建物は存在しませんでした。どうやら再建されるようです(現在は新しい不動堂が完成しています)。 観音堂の敷地の左隅に、宝暦13(1763)年の銘がある庚申塔など石仏があります。駒型で、青面金剛と三猿が彫られています。この庚申塔は豊島塚の一つ金井塚にあったものを移したものです。塚は現在の江原町1-9にあったが、今はその形跡すらなく住宅地となっています。庚申塔は塚の中央にあって狐が棲んでたことから「狐塚」と呼ばれていたとのことです。 庚申塔は江古田原片町の11軒の人々によって祀られていました。マラリアに似た瘧(おこりという病気の神様としてお参りされたとも言われてます。 豊島塚というのは、文明9年(1477)に江古田の地であった江古田合戦の死者を弔うのに盛った塚で「豊島二百柱」と言われるように相当な数がありました。江古田合戦は太田道灌が石神井城主豊島泰経を没落に導いた合戦で、豊島軍の武将たちの遺体を埋めて塚を作りました。塚は残されていませんが、豊島軍の武将の霊を集めて祀った社が沼袋駅の北、丸山塚公園にあります。 画像の左から、丸彫の地蔵菩薩像、板碑型の庚申塔、聖観音立像、不明の像、駒型庚申塔、中折れした地蔵菩薩坐像です。丸彫の地蔵は明治17年(1884)の造立。板碑型の庚申塔は、三猿のみの図柄。上部には「奉庚申供養諸願成就之所」とあり、造立年は延宝2年(1674)2月。「同行8人 女人8人」聖観音立像は天保10年(1839)の造立です。もう一つの庚申塔は駒型で、青面金剛・邪鬼・三猿・二鶏の図柄。側面に、宝暦13年(1763)10月の造立です。「奉造立庚申待 願主 江古田村金左衛門 講中28人」の銘があります。 小さなどこにでもある庚申塔です。この庚申塔は、約550年前の文明9年(1477年)、現在の江古田地域で大きな合戦があったことを伝えてくれます。扇谷上杉家の家宰・太田道灌と石神井城主・豊島泰経による“江古田原合戦”です。敗れた豊島氏は石神井城で籠城するも敗退し歴史から消えました。
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〒165-0023 東京都中野区江原町3丁目12−9