観泉寺(かんせんじ)は、曹洞宗のお寺です。戦国大名の末裔である今川氏の菩提寺です。境内にある今川氏累代の墓は、東京都の旧跡に指定されています。 慶長2年(1597)9月、中野にある成願寺の住職・鉄叟雄鷟によって、多摩郡下井草(上井草村八町 除地)に創建されました。当初は観音寺と称していました。 元和5年(1619)、大友義親に子がなく大友家は断絶となり、その妻(今川範以の三女)は実家に戻ったのち剃髪して観音寺に仕えました。正保2年(1645)、彼女の弟にあたる今川直房が当地一帯の領主となりました。直房は観音寺を上井草村の現在地に移転して伽藍を建立し、寺領を寄進し、寺の名を観泉寺と改めました。 桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れたのち没落しました。義元の子今川氏真は徳川家康の庇護を受けて京などで暮らし、慶長19年(1614)に江戸で没しました。氏真の嫡孫今川直房は高家として江戸幕府に仕え、朝廷との交渉の功績によって正保2年(1645)に徳川家光から当地(井草村)を含む新たな知行地を与えられました。以後、当地は幕末まで今川家の所領となりました。 門前左手の石仏群 北6基(西荻北4-37の地蔵坂より移転したものです。) 右 角柱庚申塔は、日月、青面金剛像、三猿の図柄です。「武刕多摩郡遅野井村」「奉建立庚申橋供養佛」と記されています。角柱庚申塔は、延享2年(1745)4月に造立されたものです。 右2番目 笠付角柱型庚申塔は、日月、青面金剛像、三猿の図柄です。「御地頭御武運長久祈 現當二世安楽所」と記されています。側面に蓮葉が彫られています。笠付角柱型庚申塔は、宝永2年(1705)12月に造立されたものです。 右3番目 馬頭観音塔は、文政7年(1824)10月に造立されたものです。「多摩郡遅野井村」と記されています。側面に「西ふちう」「東江戸」と記されており道標を兼ねています。 右4番目 笠付角柱型庚申塔は、日月、青面金剛像、三猿の図柄です。貞享2年(1685)10月に造立されたものです。 右5番目 駒形庚申塔は、日月、青面金剛像、三猿の図柄です。駒形庚申塔は、正徳6年(1716)2月に造立されたものです。 左 石段寄附の折の供養塔は、明治29年(1896)12月に造立されたものです。 西4基 右 舟型地蔵立像は、舟形光背に月輪が彫られています。「為二世安樂也 道行十九人」「願主 越本十郎右衛門 加藤為十郎 傳七」と記されています。舟型地蔵立像は、享保17年(1732)10月に造立されたものです。 西荻北4-37の地蔵坂より移転したもので、地蔵坂の名前の由来となる石仏です。 右2番目 丸彫り地蔵菩薩立像には、「地蔵菩薩念仏講女中」武刕多麻郡遅野井村 願主 渡部傳左エ門内室 同行三十四人」と記されています。丸彫り地蔵菩薩立像は、享保14年(1729)11月に造立されたものです。観泉寺の西南角の村道にあったものを、昭和3年(1928)にここに移したと記録されています。 右3番目 地蔵菩薩坐像は、日本回國供養塔として宝暦12年(1762)10月に造立されたものです。明治32年(1899)に再建したと記されています。観泉寺山門参道南端にあったものを昭和9年(1934)にここに移したと記録されています。 左 駒型馬頭観音で、馬頭観音の座像が陽刻されています。明治32年(1899)8月に造立されたものです。観泉寺山門参道南端にあったものを昭和9年(1934)にここに移したと記録されています。 南2基 「三谷子育地蔵堂」と呼ばれているお堂です。昭和56年(1981)に桃井4丁目16より移されたものです。 右の舟型地蔵立像が三谷子育地蔵です。地蔵菩薩立像の脇に「念佛供養」と記されています。台石には、「願主 本田与七郎 連衆中 二十八人」と記されています。 左の笠付石塔には、「南無阿弥陀佛」「念佛供養講中二十五人」と記されています。側面には「志やくち道」と記されています。造立年代は不明です。
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