前野良沢の墓所があるのは曹洞宗のお寺で月高山慶安寺と言います。本尊は転法輪釈迦如来。 寛永四年(1627年)に池之端に観音堂として開創、大名、旗本の寺菩提寺でした。 老中阿部豊後守忠秋が、若かりし頃、将軍家光の勘気を蒙り、無視されていたが、家光が家来を引き連れて遠出し蔵前橋のある辺りに来たとき、家光が「誰かこの大河を渡る者やある?」と戯れに問うたところ、忠秋がざんぶと飛び込んで見事対岸へ泳ぎ切り、見事に家光の勘気を解いたということがある。その水馬渡河の前に「無事に渡らせ給え」と祈願したのが、この観音堂で、後日忠秋は本尊の虚空蔵菩薩を寄進して阿部家の江戸寺としました。また秋葉権現も寄進したことから秋葉寺、秋葉横丁、紅葉寺などと呼ばれて大層繁盛しました。 大正2年区画整理のため現在地に移転。震災は免れたものの、昭和20年空爆で焼失、同41年になって漸く再建しました。 前野良沢(まえの りょうたく:1723年-1803年) 前野良沢は、江戸中期の蘭学者・蘭方医。姓名は谷口熹(よみす)、字は子悦です。良沢は通称になります。青木昆陽からオランダ語を学び、翌年長崎へ遊学、オランダ語の字書や解剖書を買って江戸に帰ってきました。明和八年(1771年)、小塚原における死刑囚の腑分けを杉田玄白・中川淳庵らと参観し、オランダの解剖書『ターヘル・アナトミア』の正確さに驚嘆、同志とともに同書の会読に従事し、安永三年(1774年)に『解体新書』を刊行しました。だし同書には良沢の名は記載されていません、何らかのトラブルがあって拒絶しためと考えられています。
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