本妙寺(ほんみょうじ)は、法華宗のお寺です。1572年(元亀2年)徳川家に仕えた久世広宣・大久保忠勝・大久保康忠・阿倍忠政らが、家康が岡崎から浜松城に移った時に日慶上人にお願いして創建された寺です。1590年(天正18年)、家康が江戸城に入った際、江戸に移転しました。御用地指定や火災により江戸を5回程移転し、1636年(寛永13年)の焼失により文京区本郷5丁目移転しました。約270年間経過後、明治41年(1908)に現在の巣鴨へ移転しました。 1657年(明暦3年)1月18日 - 20日に起きた明暦の大火(振袖火事)の火元は本妙寺とされていますが、様々な説があり実際の火元は不明です。 火元引き受け説は、火元は本妙寺の近くにあった老中・阿倍忠秋の屋敷だったという説があります。火元が老中の屋敷だと幕府の威信が失墜するため、老中に頼まれ本妙寺が火元を引き受けたというものです。本妙寺には大火の翌年から檀家ではない老中・阿倍忠秋より数俵の米(15俵)が大火の回向料として本妙寺に届けられています。この供養料の行為は幕末まで続き、明治維新後は金額(金十五両)によって続けられ関東大震災に至って終了しています。 これだけの大火の火元であるならば当然厳罰に処されるものと思われますが、本妙寺に対して一切お咎がなかったとされています。大火後多くの寺社が移転させられているにもかかわらず、本妙寺は移転されることもなく数年後には元の場所で復興し、さらには「触頭」へと異例の昇格をしています。 本妙寺境内の墓地には明暦の大火の死者の菩提を弔うために建てられた供養塔があります。 墓地 遠山 景元(とおやま かげもと、1793年~1855年) 通称は金四郎(きんしろう)。職制は、江戸北町奉行、大目付、後に江戸南町奉行。 時代劇『遠山の金さん』のモデルとして知られています。 現在の東京都港区新橋4丁目に住んでいましたが、晩年は現在の墨田区菊川3丁目に住んでいました。その住居はかつて長谷川平蔵が住んでいた住居です。 景元は青年期の放蕩時代に桜吹雪の彫り物を入れていたといわれますが確証する文献はありません。 千葉 周作(ちば しゅうさく、1793年or1794年~1856年) 北辰一刀流の流祖。15,6歳の時に、父と共に宮城県気仙沼市から松戸に移り、小野派一刀流中西派の浅利義信に入門しました。後に浅利義信の婿となって、浅利又一良と名乗りました。 周作は、一刀流組太刀の改変を考え、浅利義信の立場を重んじ、妻(浅利の養女)を連れて独立して、北辰夢想流と小野派一刀流中西派を合法して、北辰一刀流を創始しました。天保10年(1839年)、徳川斉昭の招きを受けて、水戸藩剣術師範となりました。 北辰一刀流は掛かり稽古を中心にした稽古法を作り、免許の段階を、3段階と簡素化しました。合理的な指導法は効果的で、他流派においては10年かかる修行が、5年で完成してしまうと言われました。この剣術指導法は、現代剣道に大きな影響与えました。平成15年(2003年)、千葉周作は全日本剣道連盟 剣道殿堂に顕彰されました。
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