西福寺は新義真言宗のお寺で藤林山歓喜院と言います。創建年代は不明です。駒込では福寿院とともに江戸時代からある古刹です。明治以前は藤堂家の祈願所として裕福でしたが、廃藩置県後、藤堂家の人々が伊勢に戻ってから衰微し、無住だったことがあります。 歴史がある証拠の1つに境内に明暦元(1655)年に建てられた区内最古の六地蔵(舟形石に6体の地蔵が彫られている)があります。 墓所 伊藤伊兵衛正武の墓 正武は、上駒込村の植木屋四代目伊兵衛で、樹仙と号した。江戸中期の著名な庭師です。8代将軍吉宗の時、江戸城内の庭園・樹木の管理一切を託されていました。江戸随一の植木屋とうたわれました。飛鳥山に桜を植えたり、滝野川に紅葉を植えたりすることにも貢献しています。草木に関する著書も多く、宝永から享保にかけて(1704-36)『増補地錦抄』『広益地錦抄』などを著し、庭園技術の普及につとめました。 そして彼は染井村を花の名所、ガーデニングの里にした植木屋でもあるのです。 幕末に観賞用植物の品種を求めて来朝したロバート・フォーチューンは、染井村の壮観に接してつぎのように書いています。「交互に樹々や庭、格好よく刈り込んだ生垣がつづいている公園のような景色に来たとき、随行の役人が染井村にやっと着いた、と報せた。そこの村全体が多くの苗樹園で網羅され、それらを連絡する一直線の道が、一マイル以上もつづいている。私は世界のどこへ行っても、こんなに大規模に、売り物の植物を栽培しているのを見たことがない。植木屋はそれぞれ、三、四エーカーの地域を占め、鉢植えや露地植えの数千の植物がよく管理されている。」 (「江戸と北京」三宅馨訳) サクラは数百種あると言われますが、ソメイヨシノ(染井吉野)は江戸末期(1850年代)に、染井村に集落を作っていた造園師や植木職人によって育成され、「吉野桜」の名前で売り出された新種です。その起源については今でも諸説があり明確にはなっていません。 吉野というのは江戸時代の商品名です。後から奈良の吉野と区別するため染井という名が加えられて染井吉野と呼ばれるようになりました。 上記のイギリス人の植物学者ロバート・フォーチュンは、染井村の桜園で初めて眼にした桜を、runas Yedoensis と命名して発表、1960年頃に染井村で発見育成されていた新種としています。 ソメイヨシノの起源について現在有力とされている説は、1916年、米国植物学者アーネスト・ウィルソンが提唱した、オオシマザクラとエドヒガンの雑種説です。国立遺伝学研究所の竹中要が、交配実験によりこの説を確認したとして、1965年にその結果が発表された。これによってソメイヨシノが野生種のエドヒガンを父種としオオシマザクラを母種とした交配による「らしい」ということです。
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