現在の荒川の下流は明治の末から昭和の初めまで20年を掛けて開削された人工の川です。東京(江戸)の水の歴史は徳川家康が江戸入りしてから昭和になるまで続いた治水の歴史と言えます。 多摩川も荒川も昔は暴れ川でした。 ここの地蔵と庚申塔は、ここより100m程北、現在は荒川の河川敷になっている辺りで、河川の掘削工事の折に移動したものです。昭和30年(1955)2月に現在地に移されました。 中央の丸彫地蔵菩薩が北向地蔵です。地元では「疣取(いぼとり地蔵」とか「身代り地蔵」と呼ばれています。北向地蔵は、享保6年(1721)に造立されたものです。江戸時代、庚申塔と共に浮間村の北の入口に北向きに建てられていましたた。つまり塞ノ神として村境を守っていました 右の駒形庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄です。庚申塔には「講中為二十一人二世安穏」「武州下足立郡平柳之内浮間村 願主 西念」と記されています。駒型庚申塔は宝永2年(1705)10月に造立されたものです。 左の駒形庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿の図柄です。「浮間村講中」と記されています。駒形庚申塔は、安永6年(1777)2月に造立されたものです。 後ろにあるのは阿弥陀三尊種子の月待供養の板碑です。板碑は文明16年(1484)8月23日に造立されたものです。二十三夜講の結衆による造立で、庚申講や念佛講よりも200年も前に月待講があったことが解ります。この板碑は大正11年(1922)に河川改修工事の折、氷川神社の近くで掘り出されました。
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