金剛寺(こんごうじ)は、真言宗豊山派のお寺です。 寺伝によると、空海がこの地を遊歴し自ら不動明王像を彫ったと言われています。この不動像がこのお寺の本尊です。 治承4年(1180年)、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝は配流先の伊豆で挙兵し、石橋山の合戦で敗れて安房に逃れました。 後に上総・下総を経て墨田川を渡り、滝野川・板橋から府中六所明神に向かい、ここから鎌倉に入って政権を樹立します。 このとき頼朝は軍勢を率いて滝野川の松橋に陣をとったといわれてます。松橋とは、当時の金剛山の寺域を中心とする地名で、ここから見る石神井川の流域は、両岸の岩が切り立って松や楓があり、深山幽谷の趣をもっていました。崖下の洞窟には、弘法大師の作と伝えられる石の弁財天が祀られていましたが、頼朝は、弁財天の祈願して金剛寺の寺域の弁天堂を建立し、所領の田地を寄進したと伝えられます。 天文年間(1532-1555)に阿闍梨宥印という僧が再興し、真言宗の寺院にしたと言われています。 寺の一帯は江戸時代から紅葉の名所として知られていたことから、当寺院は紅葉寺の別称でも知られていました。江戸時代、滝遊びや紅葉の見物と松橋弁天の参拝などで多くの人が来ていたと言われています。江戸市中でも松橋弁天の存在は良く知られており、現在でも松橋弁天への道標が区内に残されています。 松橋弁天 松橋弁天は、石神井川の崖下にあった洞窟に祀られていた弁才天であるです。弁才天は弘法大師の作とも言われました。かつて当地に布陣した源頼朝が弁才天に太刀を奉納したと言われていますが、太刀も弁天像も現在は失われています。さらに弁天像を納めていた岩屋も、1975年頃に石神井川の護岸工事が行われた際に取り壊されました。
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