善徳寺(ぜんとくじ)は、浄土宗のお寺です。善徳寺は、十蓮社楽誉聡林上人が開山となり、享徳2年(1453)江戸城西坪根沢に創建しました。徳川家康の江戸入府と江戸城の拡張整備に伴い平河町、大船町、馬喰町への移転を経て、明暦3年(1657)浅草新寺町(松が谷1-13)へ移転しました。関東大震災のあと、浅草よりこの地に移転してきました。 境内 ① お竹(佐久間家奉公人)の墓 お竹は大伝馬町の幕臣佐久間家の奉公人でした。お竹は佐久間家から与えられた自分の食事を貧しい人に施し、自分は流しの隅の網にかかった飯粒を食べ、亡くなるまで念仏を唱える毎日でした。お竹は大日如来の化身とされ、「お竹大日如来」として崇拝されるようになりました。そのため、墓石は石仏の形を取っています。港区の心光院には、「お竹の流し」というのがあり、それを包む袋を桂昌院は奉納しています。 ② 馬込家墓 江戸時代、大伝馬町の御伝馬役(ごてんまやく)名主として活躍した馬込家の墓です 御伝馬役とは、江戸伝馬役と呼ばれるもので、大小の伝馬町と南伝馬町・四谷伝馬町が五街道と江戸府内近郊へ人馬を継ぎ立てる夫役をいいます。町名主の馬込家は代々、この運営にあたりました。また、他の町で同様の役職にある名主家とともに、名字・帯刀を許可され、町名主の筆頭として年頭に将軍の御目見(おめみが許されていました。 馬込家は、遠江国敷智(ふち)郡馬込村(浜松市)の出身といわれ、本名を平八、当主になると勘解由(かげゆと称していました。馬込という家名は元和元年(1615)5月、大坂落城の後、浜松宿の馬込橋まで徳川家康を迎えた時、500人の人足を引き連れて迎えたことを喜んだ家康から与えられたと伝えています。 最初、菩提寺は増上寺でしたが、その後、増上寺開山聖聡の弟子の楽誉聡林が開基した善徳寺の檀家となりました。墓地は、善徳寺が数度の火災を受けて、日本橋馬喰町・浅草松葉町へと移転したのに伴って移されましたが、関東大震災によって罹災したため、昭和2年(1927)4月に赤羽へ移転した善徳寺とともに現在地へと移りました。
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