東光寺は浄土宗のお寺で丹船山薬王樹院と言います。寺伝では、延宝7年(1679年)創建されたと言われてます。当初は船山(板橋区板橋3-42)にあったのですが加賀前田家下屋敷の板橋移転に伴い現在の場所に移転しました。 旧中仙道に面した参道に沿って町家が並び当時は賑やかだったと伝えれれてます。 宇喜多秀家は、関が原合戦で破れ、八丈島に流されました。八丈島の宇喜多家は、加賀前田家の援助を受けながら島で存続しました。徳川幕府が滅び、世も明治と改まった翌年(1869)の4月、明治政府より八丈島の宇喜多一族赦免の布令が発せられました。明治3年8月、宇喜多一族71名は前田家のさしまわした便船に乗り、東京へ向かいました。前田家より板橋にあった加賀藩江戸下屋敷内に住宅を与えられました。明治6年になって明治政府は宇喜多家に板橋19,900坪の宅地を与え、長年の労を労いました。秀家の墓は当初この宅地内に子孫が建立したもので、中には秀家の遺品が納められていると伝えられています。後、区画整理や戦災の影響で東光寺境内に移され、現在に至っています。 宇喜多秀家 天正9年(1581)、父の病没により9歳で家督を相続。翌年毛利征伐のため出陣してきた羽柴秀吉(豊臣秀吉)に気に入られ、養子扱いの厚遇を受けました。本能寺の変の後、秀吉の天下取りの戦いに積極的に参戦、数々の戦功を挙げ、天下統一後は備前国・美作国・播磨国西部と備中国東半の57万4千石を知行する大大名に躍進しました。天正17年(1589)には、前田利家の娘で秀吉の養女となった豪姫を正室に迎えています。 父・直家が居城とした石山の城(岡山城の前身)の東隣の丘陵「岡山」に本丸を構えることとしました。同時に、近世的な城郭構想に基づき城下町の建設にも着手、商工業者を城下に集め、のちの岡山発展の基礎を築きました。 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では西軍の主力となって奮戦するが壊滅・敗走、薩摩の島津家へ逃れました。3年後、幕府に出頭。死罪を免れて二人の子息、近侍とともに八丈島へ配流されました。島にあること約50年、明暦元年(1655)、83歳で没しました。なお配所の宇喜多一族には、豪姫の実家・前田家や旧家臣・花房家から援助が続けられました。
MAP
〒173-0004 東京都板橋区板橋4丁目13−8