相原家は、代々この付近一帯の組頭を務めた豪農で、奥州盛岡(岩手県盛岡市周辺)の大名であった南部侯と関係があったと伝えられています。そのため、相原家薬医門は、通称「南部の赤門」と呼ばれています。門の修理の際に屋根から見つかった棟札には相原家当主の源左衛門とともに、南部藩御用人並びに御目付の目時隆之進の名が記されていました。また、享和4年(1804年)の古文書、土支田村明細帳にも南部侯の領地がこの付近にあったことが記されており、南部侯との関係が検証されます。 相原家薬医門は、切妻破風造の屋根でかやぶきです。木部全体にはベンガラ(当初は柿渋)が塗られています。万延元年(1860年)の再建棟礼が現存する表門で、江戸時代の建築様式が伝えられる貴重な建築物です。 薬医門は、屋根の棟から真下に本柱がつながるのでなく、中心からずれており、控え柱を有するもの。控柱に小屋根を付けたものを高麗門といいます。
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