練馬区の豊島園駅東側に十一か寺というちょっと不思議な場所があります。100m程の突っ込み道路の左右にズラーリとお寺が並んでいます。そして正面奥がお寺の墓地になっています。お寺のアメ横といった感じです。 お寺は、快楽院、宗周院、仮宿院、受用院、称名院、林宗院、仁寿院、迎接院、本性院、得生院、九品院の11のお寺があります。 これらのお寺は浄土宗の田島山誓願寺の塔頭(たっちゅう)です。誓願寺は、江戸時代初期に小田原から江戸神田に移り、明暦3年(1657年)の有名な振袖火事の後は、浅草田島町に移転しました。幕府から朱印300石を与えられ、檀家に豪商の多い末寺でした。大正12年の関東大震災後は、本寺は多摩霊園前に移り、ここの11の寺は、他の塔頭と別れ、現在地に移転しました。 墓地には、本草学者として名高い小野蘭山や書道家で篆刻の名人として有名な池永道雲の墓があります。 塔頭(たっちゅう)とは難しい説明を抜きにすると 寺の中にまた小さなお寺があるようなものです。一応各塔頭は独立していて、1つ1つのお寺と同じようになっています。だから各塔頭の経営も各塔頭の住職さんの手にゆだねられています。一般公開するもしないも自由というわけです。 ずらりと並んだ塔頭の中で一際目立つのが西慶院です(現九品院)。幟が立ち蕎麦喰地蔵(そばくいじぞう)との立て札がありました。 その立て札に記載されているのは下記のとおりです。 江戸期所在地:浅草北寺町 現所在地:九品院 練馬区練馬4丁目 民話:蕎麦喰地蔵 誓願寺がまだ江戸浅草田島町にあった時代のことである。浅草広小路に尾張屋という蕎麦屋があった。ある晩、夜更けた頃になって、姿の端麗な一人の僧が来たので、仏心の深い主人は、自ら一椀の蕎麦を供養した。僧は、その蕎麦をうまそうに食べ、厚く礼をいって帰っていった。その次の晩も、また同じ時刻になると、昨日と同じ僧が来て、蕎麦を乞うた。主人はまた快く蕎麦を与えた。その翌日も、またその翌日も、同じ僧はやってきた。はじめのうちは、誰も気にしなかったがそれが続いて一ヵ月にもなると、店のものは、一体あの坊さんは、何処の寺の人だろうと不思議に思うようになった。そこで、ある晩、主人は、その僧に、お寺はどこですか、と尋ねてみた。すると、その僧はもじもじして答えようとしなかったが、重ねて聞くと、困ったような顔をしていたが、やっと、田島町の寺、といっただけで、逃げるように帰っていった。「あの坊さんはどうもあやしい。狐か狸の化けたのではあるまいか」店のものはこんなことを言って、こんど来たら、つかまえて、化けの皮をひんむいてやろうなどといきまいた。主人は「まあ待て、間違えて本当の坊さんに失礼なことをしては大変だから」と、若い者を押えておいた。その次の晩も、また例の僧は来た。何くわぬ顔をして、いつもと同じように一椀の蕎麦を供養した。僧は帰っていく。その後を、主人はそっと見えがくれについていった。それを知るや知らずや、僧は誓願寺の山門をくぐり、塔頭西慶院の境内に行く。主人が、ああ、やはり本当の坊さんだったのかと思いながら、なお見送っていると、不思議や、その坊さんは、地蔵堂の前に立ったかと見ると、扉も開けずに、そのままお堂の中へ消えてしまった。あっと、主人は驚いたが、そのまま一散に家へかけ戻った。その夜主人が寝ていると、夢ともうつつとも知れぬ境に、一人の気高い僧が現われて、「われは、西慶院地蔵である。日頃、汝(なんじから受けた蕎麦の供養に報いて、一家の諸難を退散し、特に悪疫(あくえきを免(まぬが)れしめよう」といったかと思うとその姿は消えてしまった。それ以来、蕎麦屋の主人は、毎日西慶院の地蔵様の前に、蕎麦を供えて、祈願を怠らなかった。ある年、江戸に悪病が流行して、倒れるものその数を知らぬ有様であったが、この蕎麦屋の一家は、皆無地息災であった。そこで、その由来を伝え聞いて、願望の成就した人は、お礼として蕎麦を奉納したので、いつか蕎麦喰地蔵と呼ばれるようになった。西慶院は、明治維新後同じ誓願寺の塔頭、九品院に合併し、その九品院は十一ヶ寺の一として今、練馬四丁目に移転したので、蕎麦喰地蔵も同寺の境内に安置されています。
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