平安期に入って律令政治のゆるみは各地に大きな混乱を招き、地方の豪族や名主たちは、家子・郎党・下人・所従を率いて自衛組織をつくりあげました。いわゆる武士団の結成です。武士の棟梁として関東の大武士団を形成したのが桓武平氏です。 平良文の孫、将常が秩父郡中村郷に土着して秩父氏を名のって以来、その一統は武蔵国一円にひろがり地方武士団として大きく成長していきます。秩父氏の一族は、早くから利根川や荒川河口の周辺を開発し、豊島・葛西地方にまたがる荘園を支配していました。したがってその子孫は在名によりそれぞれ豊島氏や葛西氏を名のりました。 頼朝の幕府創業以来、鎌倉期を通じておおむね忠実な御家人であった豊島氏の本領は安堵され、入間川と石神井川の合流点だった現在の北区中里(平塚神社付近)に位置する居館を中心に、領主的支配者としての地位が確保されていました。 石神井郷と豊島氏 豊島氏の練馬地域への進出は、時代が進むにつれ本拠地とする北区中里の居館から漸次石神井川を西にさかのぼって所領を拡大し、その流域に石神井・練馬両城を築くようになりますが年代は判然としていません。しかし鎌倉末期には、豊島氏一族が領主的支配していたと考えられています。 そして石神井城築城の時期は、練馬区教育委員会が平成10年から続けている調査によってその規模や空堀・土塁・郭の配置からみて15世紀初頭の関東動乱期と推定されています。近世の城と異なって当時の城は居館を多少整備した程度のものであったようです。『新編武蔵風土記稿』の記録には豊島泰景が石神井城主となり、ついで弟の景村が元弘年間(1331~34)に在城したことを伝えています。 石神井城の落城 文明5年(1473)、長尾景信が死去し、その跡目をめぐり争いとなりました。解決のため太田道灌が江戸を離れた隙に、上杉氏の長尾景春は文明8年(1467)8月、鉢形城(埼玉県寄居町)に拠り兵を挙げました。豊島氏もこれに応じて挙兵しました。そこで道灌は文明9年(1477)、豊島泰明の拠る平塚城攻撃します。泰明の要請で平塚城救援に馳けつける兄の石神井城主豊島泰経が石神井・練馬両城の兵を率いて出発したのを知って、これを三浦義同・上杉朝昌・千葉自胤らとともに江古田原沼袋で迎え撃ちました。豊島軍は惨敗を喫し、泰経は石神井城にのがれ帰ります。道灌はさらにこれを追撃し、翌14日には愛宕山(練馬区上石神井1丁目・早大高等学院)に陣を張り、石碑井城の包囲攻撃を開始します。数日の間両軍の攻防が続き豊島泰経はついに降参を申し出ます。道灌と泰経の対面となり、石神井城を破却することを条件に、両軍の間にいったん和議が成立しました。しかし、それが城方の計略であることを看破した道灌はふたたぴ攻撃をかけ、ついに石神井城を攻め落しました。
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