東陽寺は、曹洞宗のお寺です。東陽寺は、慶長16年(1611)の創建といわれます。火災により八丁堀から浅草へ、さらに昭和3年、当地に移転しました。 墓所 歌舞伎にも登場する塩原太助の墓があります。 塩原太助は寛保3年(1743年)生まれで、幼名は彦七、父は塩原角右衛門、母は「とめ」と云いました。 或る日江戸に出て、身を立て、家を興そうと父に願いでたが許されず、ついに、或る朝未明に草刈りに出かけるように装って日頃飼いならした愛馬「あお」を引いて家を出ました。 この時「あお」をつないで別れた(別れの松が香才ケ原)にあります時に宝暦十一年八月二十日途中榛 名の御師の山本坊に寄り僅かばかりの旅銀を借り受け江戸に出ました(太助十九歳の時でした) 江戸に出ても奉公口を探すことが出来ず、ついに思い迫って死のうと決心し、神田昌平橋から身を投げようとしました。その刹那「早まるな」と後ろから抱き止めてくれた人が神田佐久間町の炭商山口屋善右衛門でした。太助はここで奉公を続け、朝は星を戴いて起き、夜は人声の鎮まるのをまって寝ました。 また彼は山口屋に奉公して五年目に、毎日炭荷を積んだ車を引いて通る湯島無縁坂の改修を手始めに、晩年には、中山村の反峠に渋茶の接待所の設置、伊香保より榛名神社に通ずる、天神峠には常夜燈を建て往来の者の便を計りました。彼は山口屋に奉公した期間は実に23年に及びました。 彼は、ついに本所相生町に店を構えました。木炭の粉に海藻を混ぜ固めた炭団を発明し大成功しました。巨万の富を築き公儀のお金御用を勤める身分となりました。富豪になってからも謙虚な気持ちで清潔な生活を送り、私財を投じて道路改修や治水事業などを行いました。 江戸庶民からは「本所にすぎたるものが二つあり津軽大名、炭屋塩原」と云われる様になりました。 彼は文化13年(1816年)74歳で没しました。 この様に塩原太助が歴史に刻まれたのは、私人でありながら公益事業に巨額の私財を投じたからです。
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